今回の広井試験官と、入学試験のえりな様を同じように扱うのは、あまりにも短絡的であるというお話。
創真達の落第を目論みながら、一次試験では彼らの料理の味を認め、合格させた広井試験官。
ネット上では彼女と比較する形で、自分の舌に嘘を吐いて創真を入学試験で落としたえりな様を揶揄する意見がよく見られる。
しかし、これは果たしてフェアな物の見方と言えるだろうか。
たしかに一見すると、美味い物を素直に美味いと認めた広井試験官の方が、それすらもできなかった過去のえりな様よりも、同じ薊信者でも料理人としてのプライドを持っているように思える。
だが、これはそんなに単純な話ではない。
まず我々が思い出さねばならないのは、創真が入学試験の際に作った料理は「ふりかけご飯」だったということだ。
これは、大衆料理を認めないアザミイズムの定義では、明らかに『料理』ではなく『餌』である。
薊教育の影響を未だ強く引きずっていた当時のえりな様にとって、創真の出した『餌』は美味いはずがない、否、美味いなどということがあって良いはずがなかったのだ。
「美味いはずのないものが美味い」という自己矛盾、これまで信じてきた(信じ込まされてきた)ものの否定。
その葛藤の果てに、えりな様が出してしまった答えが「自分の舌に嘘を吐く」という選択だった。
対して、広井試験官が食べた「トキシラズの幽庵焼き」は、彼女の反応から見てもアザミイズムの『料理』の範疇に入る。
この時点で、単純に今回の広井試験官と入学試験時のえりな様とを比較することは不可能なのである。
もし、広井試験官の食べたものが「ふりかけ」のような『餌』であれば不合格にしていたかもしれないし、逆に入学試験で創真が出したものが『料理』であったなら、えりな様も合格としていた可能性は十分に考えられる。
あの入学試験はまさに、「薊お父様の決めた『餌』は不味いもの」という、えりな様に刷り込まれた価値観に一筋のヒビを入れる出来事だったと言えよう。
創真があえて「大衆的な」料理を出し、それを口にしたからこそ、今日のえりな様がいる。
入学試験の大きな「嘘」は、一方で、彼女の内面の大きな転換点となるものであったのだ。