ネオ天草のジャンプ感想日記

ジャンプ感想を主に書いています。

子供が「微笑ましい」失敗をしても笑うな

 本人に悪意がなくても、子供の失敗を笑う大人は例外なくクズである。

※以下、どうでもいい内容注意
 テレビ番組や、あるいはTwitterなどで、幼い子供が何か失敗した姿を撮影し、それを投稿している親を見かけることがある。
 もちろん、そういった方々は、子供の失敗を「微笑ましく見守っている」だけであり、一切の悪意なく、可愛らしい我が子の姿を世間の皆さまに共有して欲しい一心でやっているのだとは思う。

 私はそんな無神経な連中が嫌いだ。

 
 この感覚は私自身の苦い経験から来ている。
 私が通っていた幼稚園では、年に一度、園児たちが保護者に劇を披露するいわゆる学芸会のような行事があった。

 私はそこで、とある役を演じることとなった。
 主役でこそないが、クライマックスと言えるような場面で登場するある程度重要な役であり、幼い私はその役を全うしようと意気込んでいたことを覚えている。

 とはいえ、物心がついてすぐのことだ。当時の記憶はほとんど残っていない。
 劇の本番時に私が何を思い、どのくらい緊張していたかも既に忘却の彼方だ。

 一つだけ。
 忘れようとしても未だに脳裏にこびりついて離れない苦い思い出がある。

 私は、本番で台詞を噛んだのだ。
 本来であれば「お捧げします」と言うべき場面で、「おしゃしゃげしまう」と言ってしまった。

 その瞬間、場内に笑いが起きた。
 
 解っている。
 観客である保護者達は、何も台詞を噛んだ子供を嘲笑しているわけではなく、そのいかにも「子供らしい」失敗に思わず失笑しただけだろう。
 そこに悪意はなく、日常の心温まるエピソードとして大人たちの中では処理され、今では当然誰一人としてそのことを覚えている人間などいるはずもない。

 だが、子供だった私は、笑われたことにいたく傷ついた。
 カアっと頭に血はのぼり、きっと顔は真っ赤になっていただろう。
 その後の台詞もしどろもどろとなっていたはずだから、ひょっとしたら観客席からの笑いはまだまだ続いていたのかもしれない。

 しかし、私にその記憶はない。

 劇が終わった後の両親の反応も、軽いものだった。
 私が台詞を噛んだことに周囲の保護者と同じく笑っていたらしく、もちろん私を慰めることも無かったし、そもそも私が深く傷ついていたことにすら気づいていないようだった。


 確かに、つまらない話である。
 幼稚園児がうまく言葉を発せないことなどいくらでもあるし、いちいち気にするようなことではない。
 誰しもみんなそんな失敗を経験しながら大人になるものなのだから。


 そんな中身の無い、おためごかしを口にするような奴らが私は大嫌いだ。

 子供は大人に笑われることで傷つく。
 そして、その経験は大人が想像する以上に子供の心に影響を及ぼすものなのだ。

 幼稚園のその失敗以来、私は小学校でも中学校でも「演劇」というものに参加することが怖くなった。
 台詞を噛んで笑われた経験が、その後もずっと負の影響を与え続けていたわけだ。

 だから私は子供の失敗を笑わない。
 子供が何かに挑戦して、それが上手くいかなかったら、真剣な表情と言葉で接するようにしている。

 我が子の失敗した姿を撮影し、投稿する親よ、今すぐ止めよ。
 貴方のその行動は一種の虐待なのだから。

 自分が何かにしくじったことを実の親に笑われ、あまつさえ世間にバラまかれたことをその子が知れば、必ず心に傷を負う。
 そして、その傷は、決して取り返しのつかないものなのである。